「東京西部」作成の疑問に迫る

はじめに

昭和17~19年にかけて作成された三千分一地形図「東京西部」には、その目的、作成体制、描画内容など、多くのわからない点があります。戦時下という特殊な状況にありながら、なぜこれほど大規模な測量・図化が行われたのか。なぜ軍事施設や軍需工場が詳細に描かれているのか。これらの疑問は、単なる地図作成の枠を超え、当時の行政・軍事・都市計画の力学を読み解く手がかりとなります。

現存する原図・印刷図、そして関連文献を丹念に読み解くと、「東京西部」は通常の地形図ではなく、複数の行政組織と軍が関わった“特別な地図”であった可能性が浮かび上がります。本稿では、以下の5つの疑問を軸に、現時点で判明している事実と考えられる推論を整理します。

 ① 都市計画東京地方委員会の役割と参謀本部、陸地測量部との関係は?
 ② 「東京西部」作成の目的は何か?
 ③ なぜ軍事施設や軍需工場を描くことができたのか?
 ④ どのように現地調査を行ったのか?
 ⑤ なぜ「東京西部」は焼却されず残ったのか?

(1)昭和16~20年の歴史的背景

まず、「東京西部」が作成された時期の社会状況と、陸地測量部の動きを下記の表に整理しました。この時期は、地図の一般販売停止、疎開、終戦直後の焼却命令など、地図行政が大きく揺れ動いた時代でした。

昭和16年~昭和20年までの歴史の動き
世の中の動きと戦況 陸地測量部の動き 「東京西部」作成の動き
昭和16年
(1941年)
12月 太平洋戦争開戦(12.8 真珠湾攻撃) 10月 1万分1や2万5千分1地形図等の地図の一般販売を停止
昭和17年
(1942年)
6月 ミッドウェー海戦で敗北(以降、各地で敗北が続く) 8月 200万分1以下の小縮尺地図を除き、軍隊・学校長等以外への地図の販売を停止 6月 20面作成
12月 2面作成
昭和18年
(1943年)
10月 学徒出陣 1月~4月 64面作成
9月~12月 92面作成
昭和19年
(1944年)
6月 米軍による本格的な日本本土への空襲が始まる(福岡県小倉市)
11月 多摩地域に米軍の空襲が始まる(終戦まで断続的に空襲を受ける)
4月 杉並区の明治大学予科に疎開
夏頃 地形図販売停止
11月 すべての地形図が「秘」以上の等級に位置付けられる
1月~5月 81面作成
12月 2面作成
昭和20年
(1945年)
3月 東京大空襲
4月 沖縄戦
8月 広島・長崎に原爆投下
8月15日 終戦
5月 長野県松本市郊外へ疎開
8月15日 地図焼却作業開始
8月19日 焼却作業変更命令
8月31日 陸地測量部廃止
9月1日 内務省地理調査所発足

(菊池(2007)、山田(2021)などから作成)

陸地測量部の動きから
昭和16年と昭和17年には地形図販売の停止が行われ、昭和20年には戦況の悪化に伴い長野県松本市郊外に疎開しました。8月15日に終戦を迎え、その日から地図の焼却作業が開始されましたが、19日に変更命令が下され、一部の地図が焼却を免れました。31日に陸地測量部が廃止され、翌9月1日に内務省国土局地理調査所が発足し、現在の国土地理院につながります。

「東京西部」作成の動きから
「東京西部」は昭和17年6月に最初の20面が測量(地図化)されていますが、一般的な地図作成工程を考えると、前年(昭和16年)の秋に空中写真撮影が行われ、その冬に図化作業が行われたものと推定されます。さらに地図作成の計画は、撮影前、すなわち昭和16年の夏頃には都市計画東京地方委員会と陸地測量部の間で合意されていたと考えられます。

(2)都市計画東京地方委員会と参謀本部・陸地測量部の関係

「東京西部」の最大の謎は、内務省系の都市計画東京地方委員会が計画主体でありながら、実際の作成を陸軍参謀本部の外局である陸地測量部が担ったという、省庁横断の構造にあります。「東京西部」の作成をどのような経緯・理由で陸地測量部に依頼し、そして作成に臨んだのでしょうか? 当時の三者の関係はこのような状況だったのではないか、という関係図を下記に示します。

三者の関係図

都市計画東京地方委員会は、内務省の強い権限のもとに置かれた都市計画の中枢機関であり、内務次官(会長)、東京府知事、東京市長、警視総監、東京府会議員、東京市会議員、内務省国土局長、大学教授、元内務官僚、関係自治体の首長・議員などが参加する強力な組織でした。県の都市計画地方委員会の会長が知事であるのに対し、東京地方委員会の会長は内務次官であり、1段階上の位置づけにありました。

一方、陸地測量部は参謀本部の外局であり、部長には歴代陸軍少将以上が就任していました。参謀本部に無断で地図作成を行うことは考えにくく、作成の相談を受けた参謀本部は、印刷物に重要施設は載せない、空中写真は廃棄する、内務省以外に出さない、作成記録は残さない、などの条件を付したうえで、例外的に作成を認めたと推測されます。

また、当時の陸地測量部は、昭和16年の地図一般販売停止命令の影響で作成面数が激減しており、また日本内地の三角測量作業も大正9年で終了していました。そのため、内務省からの地図作成の依頼は、職員の生活を守るため、渡りに船であった可能性があります。

(3)「東京西部」作成の目的

公的記録が残っていないため断定はできませんが、「東京西部」は昭和18年の東京都制施行に向けた多摩地域の都市計画用基図として作成された可能性が高いと考えられます。

陸地測量部の変遷を記した「陸地測量部沿革史」には、昭和16~20年の記録がなく、「東京西部」の作成目的を示した公的な記録は見つかっていません。それにもかかわらず、東京多摩地域を網羅する262面もの地図が、貴重な国家予算を用いて作成された理由は何でしょうか?

都市計画東京地方委員会は、測量班を組織して東京都市計画区域(現在の23区)をカバーする縮尺三千分一地形図を、大正10年から2か年で作成した実績があります(井口編,2005)。昭和18年7月に多摩地域が東京都に編入されることに伴い、多摩地域の都市計画立案のための大縮尺地図が必要となりましたが、委員会単独では短期間に作成できないため、空中写真測量の技術と人員を持つ陸地測量部に依頼したと推測されます。

(4)なぜ軍事施設や軍需工場を描くことができたのか

他の縮尺の地形図では、戦時改描によって軍事施設や軍需工場が意図的に隠されていました。しかし「東京西部」では、それらの建物が一棟一棟描かれています。これは、当時の陸地測量部幹部、さらにはその上部組織である陸軍参謀本部が、例外的に詳細描画を認めていたことを意味するのでしょうか? 軍事秘密の扱いから考えても、極めて異例です。

考えられる仮説は、少なくとも次の3つです。

  1. 都市計画用途として、軍が例外的に詳細描画を許可した可能性
    都市計画は国策であり、参謀本部も一定の協力姿勢を示した可能性があります。そして、「内務省内での利用に限定する」などの条件付きで許可されたと考えられます。
  2. 多摩地域が軍都化しており、軍自身も詳細図を必要としていた可能性
    多摩地域には陸軍施設や軍需工場が集中しており、軍にとっても最新の大縮尺図は有用だったと考えられます。
  3. 既存の資料を転記しただけで、現地調査は最小限だった可能性
    軍はすでに施設配置を把握しており、作成する側がそれを転記したにとどまった可能性もあります。

(5)どのように現地調査を行ったのか

空中写真だけでは把握できない細部(塀・柵・市場・公衆電話・建物名など)が描かれている点は、大きな謎のひとつです。陸軍撮影の空中写真は、戦後の国土地理院撮影のものと比べると鮮明さに欠け、「この写真でよく図化できた」と驚くほどです。

原図の裏に「現地補測 ○○(個人名)」と記されたものもあり、実際に現地調査が行われたことは確かです。しかし、戦時下に予察図を持って歩けば、警官に詰問され、住民からも不審の目を向けられたはずであり、詳細な聞き取り調査は難しかったと考えられます。

可能性としては、次の3つが考えられます。

  1. 最低限の補測のみ行い、細部は空中写真から推定した
    道路や鉄道、家屋の形状や土地の高低差など、空中写真から判読できる範囲を最大限活用した可能性があります。
  2. 市町村が保有していた資料(家屋台帳・地籍図など)を転記した
    すでに行政側が把握していた情報を、地図上に反映した可能性があります。
  3. 都市計画委員会がすでに把握していた情報を利用した
    都市計画の立案過程で収集されていたデータを、「東京西部」に転用した可能性も考えられます。

(6)なぜ「東京西部」は焼却されず残ったのか

菊池(2007)によると、昭和20年8月15日正午の玉音放送終了後に、陸地測量部が疎開していた長野県松本市の波田国民学校などで地図の焼却作業が行われましたが、19日に下記に示した焼却の変更命令が出され、見直されました。また、製図業務担当課では、原版から最初に刷った「初版」だけは焼却命令の通達に従わず、従来からの保管方法を貫き秘匿していたとのことです。

「情勢の転変に伴う作戦用地図処理要領の件通牒」(発信者:参謀本部総務課長)
三.陸地測量部
イ.原図、初刷、三角点成果表はなるべく保管す
ロ.原版はそのまま残置す 但し軍事極秘たる二万、一万、五千分一のものは焼却又は破壊す
ハ.印刷機、資材等は残置す 但し一部の「レンズ」は保管す
ニ.資材の内所要のものは職員に貸興支給す
(菊池,2007より)

終戦直後の混乱期において、「東京西部」が例外的に残存した背景には、縮尺の特殊性と情報伝達の不徹底が影響した可能性があります。参謀本部総務課の通牒では、三千分一は「軍事極秘」に該当しないと判断された可能性があります。また、原図・初刷は「なるべく保管す」とされており、「東京西部」がこの区分に含まれた可能性もあります。

さらに、終戦直後の混乱の中で、参謀本部が全国の地図を完全に把握していたとは考えにくく、「東京西部」の存在自体が十分に認識されていなかった可能性も否定できません。

おわりに

太平洋戦争の敗戦により日本はGHQの占領政策を受け、内務省・陸海軍の解体が進められました。陸軍に属していた陸地測量部も、本来であれば廃止されても不思議ではありません。しかし、なぜ名称を変えつつも組織として存続することができたのでしょうか。

菊池(2007)によれば、当時陸地測量部を監督していた大本営陸軍参謀・渡辺正少佐が、明治以来蓄積されてきた測量・地図作成技術を守り、戦後復興に活かすべく陸地測量部の存続を願い、奔走したとされています。渡辺少佐は組織移管先として内務省を訪れ、岩澤国土局長に協力を求めました。岩澤局長は「渡辺参謀、判った。こちら(内務省側)での手続きは任せておきなさい」と応じたと伝えられています。

昭和20年8月31日、陸地測量部は一度その歴史に幕を下ろしましたが、翌9月1日には内務省管轄の「内務省地理調査所」として再出発を果たしました。

東京都公文書館等で所蔵されている都市計画東京地方委員会の議事録や関係書類を読むと、各会議に国土局長が出席していたことが確認できます。また、国土局内でも「東京西部」の存在は共有され、この地図が委員会で利用されていたことも関係資料から推測できます。特に詳細原寸図の精緻さは、地図に慣れた行政官をも驚かせる出来栄えだったでしょう。「この技術を持つ組織は残さなければならない」と判断されても不思議ではありません。

さらに、もう一つ触れておきたい重要な点があります。「東京西部」の地図には、延べ88名に及ぶ作成者名が記されています。しかし、この名前は昭和19年11月1日調査の陸地測量部職員表には3名、昭和22年4月の地理調査所編成表には5名しか確認できませんでした。また、陸地測量部が作成した他の地図で、これほど詳細に作成者名を明記した例は、現在のところ「東京西部」以外、確認されていません。

この事実は、「東京西部」が単なる業務としての地図作成を超え、当時の職員たちが総力を挙げて取り組んだ特別な成果物であったことを示唆しているように思われます。戦後、復員することなく職務を終えた職員にとっては、この地図が"遺作"とも言えるのではないでしょうか。

いつの日か、芸術的とも言える「東京西部」の地図を作り上げた陸地測量部職員のご遺族や関係者に、原図をご覧いただける機会が訪れることを静かに願っています。

「東京西部」は、戦時下の日本における測量・都市計画・軍事が交差する地点に位置する、きわめて興味深い資料です。残された地図や文献を丁寧に読み解くことで、当時の行政や軍の意思決定、都市の姿、そして地図作成の背景が少しずつ浮かび上がってきます。今後も資料調査を進めながら、この謎多き地図の実像に迫っていきたいと思います。

本ページの内容は、主に菊池(2007)、山田(2021)に基づく。詳細な参考文献は「参考資料」を参照。