「東京西部」を利用して作成した地図

はじめに

「東京西部」の地図は、単独で見るだけでなく、複数枚をつなげたり、他の資料と比較することで、当時の地域の姿をより立体的に理解することができます。ここでは、「東京西部」をもとに作成した2種類の地図を紹介します。いずれも、戦前の都市の姿を現在の視点から読み解くための手がかりとなるものです。

1.戦前の八王子中心部の土地利用図

1)八王子市の歴史

令和7年は、太平洋戦争終結から80年に当たります。終戦の13日前、昭和20(1945)年8月2日未明、八王子市は米軍の空襲を受け、約450名が死亡、2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%が焼失する甚大な被害を受けました。

八王子は、江戸時代には甲州街道の宿場町として栄え、「桑都(そうと)」と呼ばれるほど養蚕・織物が盛んな地域でした。明治以降は生糸貿易の中継地として発展し、現在の中心市街地のにぎわいにつながっています。

そこで、戦前の八王子中心部の姿を復元するため、「東京西部」の地図記号をもとに『戦前の八王子中心部の土地利用図』を作成しました。

2)土地利用図について

土地利用図は、土地がどのように使われているかを面的に区分し、色分けによって表現した地図です。国土地理院では、地域の開発・整備や国土利用の基礎資料として、昭和49(1974)年から平成5(1993)年にかけて2万5千分1土地利用図(約1350面)を作成しました。本図で用いた土地利用区分は、国土地理院の土地利用図に準じています(下表)。なお、八王子中心部が表示されている土地利用図は昭和52(1977)年に調査され、刊行されています。

2万5千分1土地利用図の区分と定義
区分 定義
一般住宅地区 平屋、3階建以下の住宅を主とする地区
中高層住宅地区 4階以上の中高層の住宅団地等からなる地区
商業地区 商店を主とする地区
業務地区 企業の事務的業務を行う社屋を主とする地区
工業地区 工場を主とする地区
公共業務地区 県庁、市役所、国及び地方公共団体等の事務的業務を行う庁舎等からなる地区
文教地区 学校、研究所、博物館等、教育研究、文化施設等からなる地区
厚生地区 病院・療養所・老人ホーム等医療福祉施設等からなる地区
公園緑地 公園、動物園、墓地、遊園地等、公共的性格を有する緑地等からなる地区
運動競技施設 総合運動場、競技場、野球場等運動競技を行うための施設
運輸流通施設 駅、バスターミナル、倉庫、卸売市場等運輸流通業務を行うための施設
供給処理施設 発電所、配水場、ゴミ焼却場等、都市運営に必要な供給及び処理を行う施設
農地 水田、畑、果樹園、桑畑、茶畑など
林地 針葉樹林、広葉樹林、竹林など

印は戦前の八王子中心部の土地利用図で取得した区分)

3)戦前の八王子中心部の土地利用図

下図は、昭和19(1944)年3月に測図された「西48-2 八王子西北部」ほか4面をモザイクし、地図記号をもとに土地利用区分を行ったものです。色彩も2万5千分1土地利用図に合わせています。 また、地図記号だけでは判断できなかった区画については、陸軍撮影の空中写真を判読して区分しました。

戦前の八王子中心部の土地利用図

4)戦前の土地利用図から読み取れること

①一般住宅地区(桃色)
昭和16年当時、八王子市には約8万人が暮らしていました。住宅地は浅川右岸の堤防沿いまで広がっていたことがわかります。

②商業地区(赤色)
八王子駅北口や甲州街道沿いだけでなく、街道から一本・二本入った通りにも商店街が形成されていました。「銀座座」「東宝映画劇場」などの名称も確認できます。

③業務地区(赤横線)
地図中央付近には「安田銀行」「三菱銀行」などの銀行が集中しており、現在でいう"オフィス街"のような性格を持っていたと考えられます。

④工業地区(紫色)
戦前には大小の工場が多数存在しましたが、昭和52年の土地利用図では多くが他の用途に転換されています。

⑤文教地区(橙色)
戦前から続く学校が名称を変えて現在も残っています。
例:第一国民学校→八王子市立第一小学校、第七国民学校→八王子市立第七小学校、都立第四高等女学校→都立南多摩中等教育学校

⑥公園緑地(緑色)
神社・寺院などは、昭和52年の土地利用図とほぼ同じ位置・規模で残っています。

⑦運輸流通施設(水色)
八王子駅は中央本線・横浜線・八高線の始発着駅であり、戦前から多摩地域の主要ターミナルとして機能していたことがわかります。

⑧煙突記号
工場以外の煙突は、当時の「銭湯」などの煙突と考えられます。特に第二国民学校南側には4つの煙突記号が見られます。

2.写真と地図で見る「空都 立川」

この地図は、米軍が昭和20年4月に撮影した空中写真と、昭和17~18年に作成された「東京西部」(原図)を並べたものです。撮影時期と地図作成時期には2年以上の差がありますが、空中写真に写る建物が地図に正確に描かれており、地名や施設名と照合することで「空都」と呼ばれた戦前の立川の姿を理解できます。

「東京西部」には白紙で覆われた部分が2ヶ所あります。これは軍事施設を隠すための「地物遮蔽」で、①は陸軍航空技術研究所、②は鉄道線路が隠されていることが空中写真から確認できます。

一方、地図に家屋が描かれているにもかかわらず、空中写真では空白になっている範囲があります。これは空襲に備えて建物を取り壊し空地を作る「建物疎開」の跡と考えられます。

立川は軍事施設が集中していたため、昭和20年2月から終戦までに十数回の空襲を受け、壊滅的な被害を受けました。

写真と地図で見る「空都 立川」