東京図測量原図の見どころ(土地利用・歴史的考察)

はじめに

東京図測量原図から読み取れる特徴のうち、土地利用と歴史的考察の観点から、いくつかの見どころを紹介します。

(1)明治初期の土地利用

下図は、GISを用いて東京図測量原図から取得した地物データを色分けして示した、明治初期の土地利用図です。土地利用図は、土地がどのように使われているかを面的に区分し、色分けによって表現する主題図であり、皇居、耕地・樹木・天然地、堀・池を除き、原田(2007)に記載されている建物・敷地を図中の注記と照合しながらポリゴンとして抽出し、8項目に分類して表示しました。

その中で特に目立つのが陸軍・海軍の施設で、明治天皇が居住する皇居を取り囲むように配置されていました。そして、江戸城外堀の北側には砲兵工廠、西側には陸軍士官学校・東京鎮台砲兵営、南東の海側には海軍の施設が位置しており、これらの分布は、当時の政情不安を背景とした首都防衛体制の様子を示しています。

また、明治初期の東京の中心地は皇居東南部に位置し、この時期を象徴する銀座煉瓦街、新橋駅、鹿鳴館などが見られます。一方で、現在は高級住宅地として知られる赤坂区および麻布区は、武家屋敷が耕作地化する、あるいは荒地・樹木地として残るなど(柚木,2011)、当時の土地利用の様子が東京図測量原図から読み取れます。

東京図測量原図にみる明治初期の土地利用

次に、植生(耕地)にみられる特徴的な土地利用について述べます。東京図測量原図の植生記号をGIS上で取得していたところ、地図の左半分に位置する台地上に、「茶」「桑」の文字が付された薄茶色の植生が広がっていることに気づきました。

下図のうち左図は、東京図測量原図に地理院地図の陰影起伏図を透過させて地形を立体的に示し、その上に茶畑・桑畑・畑を色分けして表示したものです。右図は、同じ範囲の現在の地形を示した地図です。ただし、陰影起伏図は現在の人工改変が進んだ標高データを用いているため、明治期当時の地形と完全に一致するわけではありませんが、おおよその地形景観を把握することはできます。

そこで、耕地面積の割合を算出したところ、茶畑が耕地総面積の24%、桑畑が5%を占めていました。明治期中頃まで、お茶や生糸は重要な輸出品目であり、前述の桑茶政策の影響もあって、東京市中でもこれらの作物が盛んに栽培されていた様子が、東京図測量原図から確認できます。

台地上に広がる茶畑・桑畑

(2)江戸時代の鴨場と関東大震災による建物被害

東京図測量原図では、「邸宅」と呼ばれた明治の豪邸以外にも、一般庶民の住宅敷地内に池を保有する例が多く見られますが、それらとは形状が大きく異なる池が描かれています。これらは江戸時代に将軍家や大名家が所領した「鴨場」で、東京図測量原図では5箇所確認できます。この鴨場とは、幾筋もの引堀(細い堀)を設け、小覗(このぞき)から鴨の様子を伺いながら、ヒエやアワなどの餌とおとりのアヒルで引堀へ誘い込み、機を見て小土手から鷹や網で捕獲する猟を行う池のことで(浜離宮恩賜庭園パンフレットより)、地図には竹で囲まれた細い堀が多数描かれています。このような鴨場が明治初期まで残存していたことに驚かされるとともに、往時の鴨猟の様子を思い浮かべることができます。

また、徳川将軍家の菩提寺である伝通院が所領した鴨場は、現在の文京区小石川4丁目に位置していましたが、地理院地図ではこの池の近くにある光円寺に自然災害伝承碑がプロットされています。この碑は大正12年に発生した関東大震災の震災殉職記念碑で、「大正12年(1923)9月1日午前11時58分、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の大地震とそれに伴う大火災が発生し、博文館小石川工場の一部が倒壊し、労働者41名が犠牲となった」旨を伝えています。

陸地測量部が作成した関東大震災の被害状況図「震災地応急測図原図」の1万分1地形図「早稲田」で同地点を確認すると、工場建物に「×」記号が付されていました。この記号は地震により倒壊した建物を示すもので、前述の震災殉職記念碑はこの工場の被害を伝承していると考えられます。工場建物の形状をトレースして位置情報を付した東京図測量原図に重ね合わせると、伝通院所領の鴨場および周囲の水田と重なることが分かり、軟弱地盤上に建てられた工場が関東大震災の強い地震動によって倒壊した可能性が推測されます。

江戸時代の鴨場と関東大震災による建物被害

(3)東京図測量原図が示す「帯坂」呼称の再検討

「番町皿屋敷」は、番町の旗本屋敷に仕えていたお菊が非業の死を遂げ、幽霊となって井戸から現れ、夜ごとに皿を「一枚、二枚…九枚」と数えるという江戸時代の怪談です。お菊が帯を引きずって逃げた坂を「帯坂」と呼ぶとされますが、この名称は明治末期以降に使われ始めたとする研究報告があります。

しかし、東京図測量原図で「帯坂」の位置を確認すると、現在と同じ道筋が描かれ、その上端中央に「帯坂」の注記が記されています。これにより、「帯坂」という呼称は明治初期にはすでに存在していたことがうかがえ、さらに江戸時代から用いられていた可能性も考えられます。

このように、東京図測量原図と現代の地図を重ね合わせて比較することで、従来の歴史的通説が再検討を迫られる事例が見いだされることがあります。

帯坂