西10-1 野火止

三千分一地形図「東京西部」西10-1 野火止(原図)
西10-1 野火止(原図)
「西10-1 野火止」と同じ範囲の現在の地図
「西10-1 野火止」と同じ範囲の現在の地図

「西10-1 野火止」の情報
属性 内容
図番・図名 西10-1 野火止(のびどめ)
測量・測図年 昭和18年9月
地図の種類 原図、印刷図
地図の区分(描図法) 縮小図
地図に含まれる現在の行政名・町名 東村山市青葉町、清瀬市竹丘・梅園、東久留米市野火止・下里・八幡町
地図に表示されている注記 行政名:北多摩、清瀬村、久留米村、東村山町
町名・集落名:芝山、下里、下堀向、野火止、本村、宮下
官公庁・研究所名:結核研究所
学校・教育・運動施設名:都立久留米学園
病院・厚生施設名:上宮教会病院、清瀬保養園、薫風園、傷痍軍人東京療養所、清心療養園、全生、都代用病院
河川・池沼・上水名:久留米川、野火止用水
豆知識 ①地図全体の特徴
・縮尺1/4,000で作成された縮小図で、左上には印刷図に仕立てる際の図郭の引き伸ばし寸法が記されている。
・等高線は5m間隔で描かれており、主要な地名や地物の注記は、書き込みと貼り込みが混在している。
・原図には測図年月として「昭和18年10月」の植字が貼られているが、印刷図では「昭和18年9月」の植字に貼り直されている。どちらが正しいか判断できないため、本サイトでは印刷図に記された測図年月を採用している。
②地図に描かれた内容から読み取れること
・図の左隅から右辺中央にかけて野火止用水が流れている。これより南側が現在の東久留米市、北側のうち東側が清瀬市、西側が東村山市に相当する。
・図に記されている「清瀬村」は1954(昭和29)年に清瀬町となり、1970(昭和45)年に市制施行して清瀬市となった。「久留米村」は1956(昭和31)年に久留米町となり、同じく1970(昭和45)年に市制施行して東久留米市となった。「東村山町」は1964(昭和39)年に市制施行し、東村山市となっている。
・本図には、7つの病院・厚生施設が点在している。そのうち、図の上部中央に広がるのは、1939(昭和14)年に開設された「傷痍軍人東京療養所」で、傷痍軍人の結核療養施設の一つである。戦後は、国立東京療養所を経て、現在の国立病院機構東京病院へと続いている。
・図の左辺中央に小さく「全生」と記されているのは、1909(明治42)年に開院した多磨全生園である。現在も国立療養所として存続しており、その広大な敷地が地図にも表れている。
・野火止用水は1655(承応4)年、川越藩主・松平伊豆守信綱により、武蔵野開発の一環として野火止台地に入植した人々の飲料水・生活用水を確保する目的で開削された用水路で、「伊豆殿掘」とも呼ばれる。現在の小平市中島町を流れる玉川上水から分水し(西27-2 七番組北)、埼玉県新座市を通って新河岸川(志木市)へと至る全長約24kmの水路である。
・図の中央より右斜め下、野火止用水に接する位置には、高まりの上に「路傍祠」の記号が描かれている。現在の竹丘浅間神社にあたり、江戸時代には冨士信仰の行が行われていたという。
③その他
・地図・空中写真閲覧サービス(国土地理院)で印刷図を閲覧できる。
・参考文献:『多摩地形図』(之潮)ほか